スポーツのあなぐら

主に野球のデータ、ドラフトについて書いていくブログ。更新頻度は気まぐれ

暗黒期脱出を西武ライオンズに学ぶ

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今回は新規チームではなく
暗黒期のチームを強豪へ作り変える話。
ある意味定番…と言えるかどうかはわからないが
70年代後半から80年代の西武を取り上げてみたい。
この時期のライオンズについては
竹下弘道氏の「『広岡西武』の研究」*1が既にあり
データなどはそちらのほうがはるかに勝っているのだが
若干違う角度から西武黄金期に迫れれば幸いだ。
またドラフトの話に関してはこちらも参照してほしい。

 

 

暗黒期から日本一へ

ライオンズ福岡最後の年

まずは根本陸夫が監督に就任した1978年。
クラウンライターの最終年にあたる。

1978LF

1978LP

2年連続最下位のチームはこの年は5位。
ベテランも多いが
既に山村が3年、
若菜と真弓が使われて2年たち、
この年は2年目の立花も起用されるようになった。
打撃成績はリーグ平均を上回る野手も多かったものの
突出した選手は少なく得点はリーグ5位。
投手は防御率こそリーグ3位だが
失点はワーストだったロッテと5点差のリーグ5位だった。

 

西武1年目

西武が買収し
福岡から所沢へ移転した1年目。
阪神に真弓、若菜、竹之内、竹田を放出して田淵と古沢、
古賀と倉持明をロッテへ放出して山崎と成重春生を獲得するなど
西武の資金力を得た根本らは精力的な補強を行った。
外国人選手も総入れ替え。

1979LF

1979LP

しかしチームは最下位。
リーグ全体が打高投低になるなかで
相対的に打撃成績は大きく落ち込んだ。
守備力も大きく下がったようである。
その代わりに
森の1位抽選と松沼兄弟の争奪戦で勝利した投手陣は
かなり持ち直している。


ここからは一気に日本一となった82年に飛ぼう。

前期優勝、日本一へ

1981年は勝率5割の4位だったが
得点599、失点513*2と確実にチーム力を向上させていた西武。
翌82年からは広岡達朗が監督に就任し
根本はフロントに専念することになった。

1982LF

1982LP

打線はやや不調で得点が大幅に下がった*3ものの
投手陣は好調を維持しており
前期優勝を達成。
プレーオフ日本シリーズも制し日本一となった。
生え抜きの山村とベテラン山下との交換で獲得した
片平と黒田、
シーズン中に古沢とトレードした高橋の補強も光った。

 

4年間の新戦力

この4年間の戦力移動はこうなる。

1979-82Lトレード

太字はルーキー、黄枠はトレード。
やはりもともとが暗黒期のチームだったためか
新戦力をかき集める4年間だった。
生え抜きで戦力として使われた選手には
ルーキーが多く、
それまでの戦力不足と
即戦力を大量にかき集めるドラフトをしたことがうかがえる。

 

優勝をあきらめた西武首脳陣の選択

「若手中心への切り替え」と2年ぶりの優勝

前後期制から一期に戻った1983年は独走でリーグ優勝、
日本シリーズでは死闘を制し2年連続日本一を達成した西武。

1984LF

1984LP

前年好調だったベテラン野手が急激に落ち込んでしまい、
MLB復帰したテリーの後釜として獲得したジェリーや
柴田と木村とのトレードで獲得した江夏も
悪くはないがいまいちな結果になった。
山崎と田淵がこの年で引退。

1985LF

1985LP

翌85年は
ジェリーを切った代わりに郭が入り
外国人野手2人から野手1、投手1の体制になった。
ジェリーの穴には杉本、大石との交換トレードで田尾が加入。
秋山と辻のバッティングも開花した。
投手は松沼兄弟と森に衰えが見えてきた代わりに
工藤、渡辺の若手が覚醒。
チームは独走で2年ぶりのリーグ優勝を果たした。

 

出場機会を増やした若手とは

さて1984年に関しては
「優勝をあきらめた6月以降に若手中心に切り替えた」が
定説になっている。
でも実際に出場機会を増やしたのは誰だったのか。
不動の四番になっていた田淵がスタメンから外れた
6月7日を一区切りとし
その前後を比較してみるとこうなった。

1984/6/7前後

伊東、西岡、金森、広橋、駒崎の若手・中堅だけじゃなく
大田、片平のベテランもスタメンが増えた。
ファーストとDHは若手では埋められなかったのだから当然の形だ。
しかも既に83年までに出場機会が増えていた選手がほとんどなので
84年にそれまで以上にスタメンが増えたのは
伊東と駒崎ぐらいしかいない。
伊東はそれまでのライオンズのキャッチャーに比べて
明らかにバッティングが好調だったのだから
若手云々の問題でもないことになる。
この年限りで引退する山崎も
元々出場機会を減らし始めたので
大きな差になっていない。
そして意外なことに、
のちに不動のスタメンに成長する
秋山と辻はむしろスタメンが激減している
この2人の1984年に関しては
「優勝をあきらめてスタメンが増えたから成長した」
と言う人がいたらそれは間違い。
一軍で多少機会を与えた後課題を二軍に持ち帰って鍛えた
が正解だ。

83年から86年までの新戦力はこうだ。

1983-86Lトレード

トレードは相変わらず活発に行われている。
生え抜きは1年目から使われる選手が減り、
一軍戦力が充実していたことがうかがえる。

 

78~85年西武主力の平均年齢

今回挙げた5年の主力平均年齢はこうなった。

  F P
1978 28.8 29.4
1979 30.3 28.3
1982 29.1 27.3
1984 29.2 31.9
1985 29.2 29.5

一番平均年齢が若いのは
根本就任1年目。
単純に見れば
根本はそのチームを
ベテラン中心に作り変えて強くしたことになる
若さが飛躍的に増したのは
清原や田辺徳雄らが主力になり
投打ともベテランの引退、移籍が相次いだ後だ。

こうなったのはドラフトとトレードによる。
暗黒期による戦力不足のためか
大社出身の即戦力を獲ってはすぐ一軍で使う傾向が強く
岡村、金森、辻と24歳以上の野手の上位指名も多かった。
ドラフトは上位での野手指名が多かったが
これは言うまでもなく1978年の成果が大きい。
森、松沼博、松沼雅の3人が
どれだけのイニングを投げていたか見てみよう。

松沼兄弟+森

最初の3年間はイニング数にして約45%、
先発した試合数は全試合の半分以上を占めていた。
82年以降イニング数が減ったのは
森が抑え役に回ったため。
85年からは3人とも勤続疲労がたまったか
急速に衰えていったが
6年以上貢献し続ける即戦力をこれだけ一度に獲れれば
そりゃあ野手指名に比重を置けるというものだ。

またトレードは
若手・中堅を放出してベテランを獲る補強が目立ち、
そのためには
それなりに成長した生え抜きを出すこともいとわない。
この後だと
32歳の平野謙を獲るために25歳の小野和幸を放出したのが
わかりやすいか。

ただし
黄金期を迎えてからは
純粋に目の前の戦力を獲りに行くトレードが多いが、
暗黒期で行ったトレードの場合は
山崎、成重*4、古沢*5、片平*6
優勝経験のある選手が目立っている。
ダイエーでも同じことをやったのがあの世紀のトレード
31歳の秋山と28歳の佐々木誠もそうだが
このときは若いエース格の村田勝喜も放出している。
26歳の渡辺智男と25歳の内山智之に対して
24歳の村田と29歳の橋本武広
しかも橋本は成立直前の数合わせだった*7というのだから
年齢のバランスが明らかに見合ってない。
その後にFAで松永浩美、工藤、石毛を獲得したのも
やはり単純な戦力だけじゃなく
優勝経験や精神的な意味合いも強いように見える。
これから若手を育てていくにあたって
優勝経験のある選手が揃う中で鍛えていこうという腹だろう。

一方で
チーム力がついた後の若手の起用は
積極的ではなく、
むしろ慎重である。
高卒選手ものちの清原以外は早くて3年、
概ね4年目に一軍起用が増え始め
開花する選手は早くても5年目以降に成長するケースがほとんど。
スタメン固定されるのは
実力が伴い結果を残すか
バッティング以外の評価がよほど高いかのいずれかになる。
逆にかなり早く起用した立花や
73年のドラフト1位山村は
使われ続けたが伸び悩み、
まずまずの結果を出しても2年続かなかった。
82年のところで挙げておいた伊東は
スタメン出場はほとんどなく、
代打兼三番手捕手の位置づけだった。
このあたりは
当時「なぜスタメンで使い続けない」と批判された
2019年中日*8の石橋康太の起用法とよく似ている。

しかし根本がとってきた
ドラフト、トレード、起用に関する戦略は
根本がやらないと非常に叩かれるのが現実。
特に「根本流」を推奨してくる人は
例外なく猛批判である。
何の因果だ。

 

「自分が生え抜きを育成して黄金期を築いた」自負

最後に1982年のチーム構成をもう一度思い返してみよう。

1982LF2

1982LP2

最近巨人の御意見番OBとしての発言が多い広岡達朗氏は
「補強を一切するな、生え抜きを育成しろ」
とよく口にされている。
だが82年頃の西武を見ると
必ずしも「生え抜き」の育成だけで
チームを作る必要はないとわかる。
戦力の約1/3が他球団からの移籍選手と外国人、
特に野手は半数弱がいわゆる外様で
しかも平均年齢の非常に高いベテラン中心のチームだったのだ。
そしてその後も育成が追いついていないポイントは
しっかり補強し、
西武は常勝軍団の道を歩んだ。
このときの監督が誰だったかは改めて言うまでもないだろう。

*1:『デルタ・ベースボール・リポート2』(水曜社、2018年)

*2:ピタゴラス勝率は.577でリーグ1位

*3:529でリーグ5位

*4:オリオンズは1970、74年にリーグ優勝。77年後期優勝。74年は日本一。

*5:阪神が優勝した1964年に8試合に登板。当時16歳(高校中退)

*6:1973年に優勝

*7:しかしそれまで実績のなかった橋本が移籍後30歳をすぎてから長く活躍することになる

*8:ヘッドコーチは伊東勤