前に1985年以降の西武のドラフトについて見たことがあったが、
今回は所沢に移転して以降の1978~84年について
見てみることにしよう。
西武になってからの上位指名
上位指名については以前にも1977~96年まで
まとめて載せているが、
ここでは改めて78~84年までを見ておこう。
ちょうど1位入札・抽選制度になったのが78年からだが、
1位に関しては一番人気への入札が多い。
なおこの間に一番人気が高校生だったのは
81年の金村義明(2球団)だけになっている。
1位に限って言えばくじ運が良い。
外れ1位と2位だと高校生の入札も少なくないが、
最終的に高校生と大学生・社会人の比率は7:7で同じになった。
この中で改めてちょっと気になったのは、
まず高卒3年目からサードスタメンに定着していた24歳の山村善則がいたのに
大学生サードの岡田を入札したこと。
のちに25歳の吉永幸一郎がいる中で高校生の城島健司を獲得したのとは
年齢差が違いすぎる。
あとは抽選に当たったため80年の上位指名が
大卒2年目と大卒4年目の社会人野手2人だった点。
鴻野や伊東、渡辺などの高校生ばかりがクローズアップされるドラフト評論では
目を向けられない部分である。
というか高卒至上主義が浸透している今、
大卒社会人野手3人、高卒だが25歳の社会人野手1人を上位指名するチームは
確実に袋叩きに合うぞ。
もちろん「根本流」を推奨するドラフト評論家からも。
使うようであまり使っていないドラフト外
高投 | 高野 | 大投 | 大野 | 社投 | 社野 | 高投 | 高野 | 大投 | 大野 | 社投 | 社野 | |||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1977 | 1 | 2 | 2 | 5 | 1 | 1 | 2 | |||||||
1978 | 1 | 2 | 1 | 4 | 1 | 1 | 1 | 3 | ||||||
1979 | 1 | 1 | 1 | 1 | 4 | 4 | 5 | 9 | ||||||
1980 | 1 | 1 | 2 | 4 | 3 | 3 | 1 | 3 | 10 | |||||
1981 | 2 | 1 | 1 | 1 | 5 | 1 | 3 | 1 | 5 | |||||
1982 | 1 | 1 | 2 | 2 | 6 | 1 | 1 | 2 | ||||||
1983 | 1 | 1 | 1 | 2 | 5 | 0 | ||||||||
1984 | 2 | 1 | 3 | 0 | ||||||||||
7 | 9 | 2 | 3 | 8 | 7 | 36 | 9 | 13 | 2 | 1 | 3 | 3 | 31 |
本指名では社会人がちょうど半数に達し、
高校生はドラフト外でかなり獲っている。
本指名が80年までは4人、
それ以降も6人までしか指名できなかった点や
上位候補の選手も裏技・寝業を駆使してかき集めたことを
考慮する必要があるが。
またドラフト外の人数がかなり極端な変遷をたどってきた。
大量獲得は79~81年の3年間しかなく、
ドラフト制以降は西鉄時代から1974年以外毎年、
それも3,4人は獲得することの多かったライオンズが、
83年からはほとんど獲らなくなるのだ。
85年以降も86年に大量5人を久々に獲得しているが、
それ以外だと89年に1人獲っただけであとはいない。
「5年先の未来」を作るには
まず野手。
大卒・社会人が14人中10人、
高卒も20人中13人と
とんでもない数の選手が何らかの形で戦力になっていた。
長く活躍する精鋭を見つけ出すというよりは
むしろ物量作戦に近い結果である。
一方の投手。
大学生・社会人が15人中9人が戦力になったのに対し、
高校生は16人中5人とかなり確率が下がった。
高校生には工藤、渡辺の怪物2人がいるが、
それを言ったら26歳でプロ入りの松沼博も
渡辺と同じ年数活躍している。
松沼兄弟がはげしい争奪戦になったのも納得だ。
そして1978年のドラフトの凄さが改めてよくわかる。
柴田が本格的に活躍したのは6年目の日本ハム移籍後なので
西武ではあまり結果を出せてはいなかったものの、
1年目から大活躍の森と松沼兄弟だけで驚異的。
現行のルールではもはや不可能なことをやってのけたのが
この年の西武だった。
さて、ここで
高卒選手の一番右側につけた数字を見ていただきたい。
これは何らかの形で一軍戦力になるまでの年数だ。
野手はかなりの数が4年目までには戦力になっていて、
投手は小野がやや時間がかかったものの
1年目から左のワンポイントとして戦力になった工藤、
2年目に便利屋として最優秀防御率のタイトルもとった渡辺と、
こちらも高校生が戦力になるまでの年数が短い。
つまりどういうことか。
「若手の抜擢が早い。見習って未熟な若手をどんどん使え」は不正解。
それだけ早く使えるようになる選手を獲っているということだ。
考えてみれば当然の話になる。
裏技・寝業を駆使して大物を獲得するということは、
それだけ即戦力級の選手を獲っていっているわけなのだから。
そして実力がまだ一軍レベルじゃない若手の「抜擢」もあまりない。
出てきた後しばらく活躍できなかった野手は
代打兼DH要員だったために
翌年からバークレオ、デストラーデの加入で
空きがなくなった大久保ぐらい。
それ以外は一度戦力になった後は
その後もスタメン、ベンチ要員問わず何らかの形で戦力になり続けている。
なお、この87年の打撃成績は大久保より伊東のほうが若干上*1である。
一方で、1年目からの活躍も工藤しかいない、
2年目ですら投手が渡辺だけで、
野手にいたっては
2年目から第三捕手として活躍し始めたが
19歳での指名だったため年齢的には高卒3年目だった伊東以外
全員が3年目以降に活躍し出したことも忘れてはならない。
つまり最初の1、2年はよほどのことがない限り
二軍やアメリカで鍛え上げ、
実際の一軍固定は一軍で使えるだけの戦力になってから、
というのが西武の育成だったことがわかる。
「有望な高卒の若手は一軍に上げて使えば伸びる」などという
高卒至上主義、若手至上主義の考えは
当時の西武にはなかったのだ。
即戦力を本当に一軍戦力になるまであわてず急がず育成し、
育ってから本格的に一軍に送り出す。
監督の意向も多分にあった*2んだろうが、
これが西武の黄金期を作り出した育成だったと言えるだろう。