今回は前回紹介しなかった
1954年誕生の高橋ユニオンズのチーム編成について
簡単に紹介していこう。
高橋ユニオンズに関しては
はるかに詳しい書籍もあるので
それらに比べるとかなり浅い内容になってしまうが
あらかじめご容赦いただきたい。
ユニオンズ3年の足跡
1954年
1年目に主力となった選手は
毎日オリオンズから移籍した選手が目立つ。
ベテランでも既に完全な主力とは言えなかった選手が多く
戦力外寸前の選手の寄せ集めな印象はぬぐえなかったが
笠原と武末が復活。
この年は6位だった。
1955年
この年は若い山田が台頭したが
他の選手が前年以上に落ち込む。
投手も守備も崩壊したチームは勝率.350を割り込み
当時のパリーグ規定に基づいて
500万円の制裁金を支払うことになった。
笠原が終盤から兼任監督。
なお55年はトンボ鉛筆が提携し
チーム名がトンボユニオンズとなっている。
1956年
多くのベテランが引退や移籍などでチームを離れ
慶應大から入団した佐々木と
入団2年目プロ6年目の伊藤が
投打でチームを引っ張る形になった3年目。
全体の戦力はまったくそろわず
2年連続の制裁金をまぬがれるのがやっとで、
資金繰りにも行き詰ったチームは
翌年の春季キャンプ前に解散となった。
ユニオンズはベテラン偏重のチームだったのか
ここで当時のパリーグの
主力の平均年齢を見てみよう。
ただし野手は100打席以上*1に限定している。
1954 | 1955 | 1956 | ||||
---|---|---|---|---|---|---|
F | P | F | P | F | P | |
西鉄 | 28.0 | 22.3 | 28.1 | 23.3 | 27.1 | 22.9 |
南海 | 26.8 | 24.0 | 29.8 | 23.3 | 26.9 | 21.5 |
毎日 | 28.7 | 23.0 | 26.9 | 24.3 | 23.4 | 23.9 |
近鉄 | 28.1 | 26.9 | 28.1 | 25.4 | 24.4 | 26.4 |
阪急 | 28.5 | 24.0 | 27.3 | 25.8 | 27.8 | 24.8 |
東映 | 27.7 | 26.5 | 27.8 | 24.6 | 26.6 | 23.1 |
大映 | 27.8 | 27.0 | 25.2 | 27.1 | 26.0 | 25.3 |
高橋 | 30.5 | 29.3 | 27.3 | 26.8 | 25.1 | 23.7 |
たしかに1年目のユニオンズは
かなりの「ロートル」で構成されたチームと言われても仕方ない。
これはユニオンズ誕生の4年前にあたる1950年当時も同様で、
新規3球団の主力平均年齢が野手29.9、投手27.5だったのに対し
既存4球団はそれぞれ26.9、26.8だった。
球団数を増やしリーグで戦える戦力を作ろうとすると
どうしても他球団や社会人からの移籍が中心になるのだ。
だが3年目になると
ベテランが軒並み引退するなどして
チームは一気に若返っていた。
新しく入った30代の野手3人も
筒井敬は南海から移籍した選手だが、
北川は社会人からの出戻り選手。
荒川にいたっては
北川と同じ大昭和製紙からこの年プロ入りした
ルーキーだった。
この当時の特徴として顕著にみられるのは、
各チームの主力選手がとにかく若いことだ。
阪急の戸倉勝城のように
40歳になってから打率.300を記録する*2選手もいるにはいるが
あくまで例外。
野手でもリーグに数人は10代の主力がおり、
投手にいたっては
1954年の南海や56年の西鉄のように
主力7人のうち19歳が3人もいるチームすらあった。
そんな中で56年のユニオンズも
野手がリーグ3番目、投手は4番目に若いチームになっていたが、
20代前半の山内和弘、榎本喜八が打ちまくっていたオリオンズと違い
ほとんどの若い選手は戦力になったとは言い難い。
資金があまりにも乏しく
若いことは若いが経験の浅く安く獲得できる選手で
何とか頭数をそろえる*3が精一杯だったのだろう。
他チームがユニオンズに対して
主力を放出しなかったことは今でも批判対象になっているが
引き抜かれる選手にしても
資金不足と最初から分かっているチームに
わざわざ行きたいかと言われれば疑問だし、
チームとしても
かなり活躍できる選手が何人も入ったところで
彼らを翌年以降も保持できたのだろうか。
現代では信じられない編成人数
この3年間のユニオンズの選手数はこうなっている。
F | P | |
---|---|---|
1954 | 26 | 19 |
1955 | 36 | 24 |
1956 | 28 | 15 |
2年目に選手の数をかなり増やしたものの
選手の頭数を残しておく資金が乏しくなったためか
3年目は再び大幅に減っている。
現代の70人枠から見るとかなり少ないが、
これもまた時代の違いが大きい。
たとえば
1960年にパリーグで優勝した大毎オリオンズの選手数は
わずか40人。
56年の日本シリーズを制した西鉄も45人。
それどころか資金の豊富な巨人ですら
この年は野手30、投手18の48人しかいない。
むしろ55年のユニオンズはかなりの選手を抱えていたと言える。
また先ほど見た主力の平均年齢を総合すれば
二軍での育成にはそこまで金をかけなくていい時代、
それだけプロとアマチュアのレベル差が小さく
高校生からでも即戦力を輩出しやすい時代でもあり、
現代に比べて全盛期も衰えもかなり早い時代でもあった。
エクスパンション推進で気をつけなければならないこと
現状の12球団や
現実に模索されている「16球団構想」の場合、
高橋ユニオンズのようなチームはおそらく現れないだろう。
東北楽天も1年目の年齢構成は
ユニオンズに近いものがあった。
しかし現代はドラフトがあり
金銭的な大争奪戦を制しなくとも
そこそこ良い選手を何人も獲得することは可能だし、
当時に比べれば
チーム力が一部のスター選手に依存する比率も低い。
事実楽天は数年かけて
リーグの中で最低限以上に戦えるチームを構築することができた。
長い間チームを維持するだけの
資金と収益増加を見通せる球団だけが
参入を許されることになるのは言うまでもない。
ただし一部の人たちが主張する開放型モデルに移行した場合や
外部の「16球団構想」賛成者が主張するように
早急に4球団を増やさせた場合は
このようなチームが続出する可能性が高い。
そもそも早急な新規球団増という主張自体が
ユニオンズ設立の状況とほぼ同じなのだから
当然の結果とも言える。
ただし開放型では
J(B)2、3にしばしばあるような
下部リーグまでを前提のチームとしての設立も考えられる。
下部リーグに落とされた既存球団がどうなるかは置いておくとして。
一方、閉鎖型のままで16球団へ一気に増やした場合は
ユニオンズのような新規チームの早期解散はありえるし、
賛成者の望み通りに
既存の「既得権益」球団が消滅するかもしれない。
その場合は
球団数が「16球団」から減ることになるのだが
まあ彼らにとっては全く問題ないのだろう。
またそうなったとき
本当に「野球人口」が増えるのか、
たとえ野球人口が増えたとしても
主な収入を得る職業・手段として
プロ野球選手を選択する若者が増えるかは
定かではない。
特にエクスパンションを強く主張するスポーツライターなどは
アマチュア野球の延長線としてのプロ野球、
あるいはプロ野球のマイナーリーグ化*4を
求める人がそこそこ多いので、
こうした懸念はどうしても出てくるのである。