スポーツのあなぐら

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「森西武」はなぜレフトをドラフト指名しなかったか

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今回は、
先日『デルタ・ベースボール・リポート3』に掲載された
竹下弘道氏の「『森西武』の研究」について少し考えてみたい。
竹下氏が指摘していたように
86年以降の西武はレフトが穴になっていたが、
この穴を積極的に埋めようという様子は見られず、
特にドラフトでは外野手の上位指名が見られなかった。
なぜだろうか。

外野手の上位指名数

まず一つ目の理由は、
そもそも外野手の上位指名は少ないことだろう。
1986年から根本が西武にいた91年までの6年間のドラフトを見てみると、
外野手の上位指名はこの7人しかいない。

1986 日本ハム 2 筒井孝 松戸馬橋高
1988 日本ハム 2 鈴木慶裕 日本石油
1988 近鉄 2 中根仁 法政大
1989 近鉄 2 畑山俊二 住友金属
1989 広島 2 仁平馨 宇都宮工業高
1991 広島 1 町田公二郎 専修大
1987 阪神 2 高井一 横浜高

1位は若田部健一の外れ1位で指名された町田だけ。
他にものちに外野手として活躍した上位指名選手
投手入団を含めて何人かいるのだが、
野手の上位指名なら内野手、捕手が圧倒的に多い。
言い換えれば「外野手は上位じゃなくてもいい選手が残っている」わけで、
2位までに無理に狙う必要がなかったことがわかる。

外野手の本指名が少ない根本陸夫

次に、ライオンズ時代の根本陸夫のドラフト指名を考えよう。
根本のいた1977~91年のライオンズでは、
外野手の上位指名は岡村隆則(80年2位・河合楽器)と
山野和明(85年2位・鎮西高)の2人*1がいる。
ちなみに岡村はヤクルトと、山野は阪神と、
いずれも2球団競合を引き当てて獲得した選手だ。
一方3位以下の本指名となると、
その数は極めて少なくなる。
86年以降は竹下氏が多少書いているので触れない*2が、
77~85年では

1977 4 慶元秀章 近畿大
1979 4 蓬莱昭彦 西南学院大
1983 3 青山道雄 プリンスホテル
1985 4 森博幸 新日鉄君津

の4人。
9年間で合計6人しか指名*3していない。
ドラフト外では
のちにバイプレーヤーとして活躍する
西岡良洋駒崎幸一羽生田忠之など
それなりに獲得してはいるのだが、
本指名となるとあまり獲っていないのだ。

そしてこれは、ダイエー時代も変わらない。

1992 4 佐藤真一 たくぎん
1995 5 高橋和幸 所沢商業
1996 3 柴原洋 九州共立大
1997 5 辻武史 星稜高

92年から98年までの7年でわずかに4人だけ。
のちに外野起用される大越基松中信彦の獲得、
松井秀喜の入札などはあったが、
外野専任の上位指名と言えなくもないのは
ダイエー3位指名以外を拒否させた柴原洋のみで、
数字上は1人もいなかった。

対象年度のちょっとした穴

さて、今挙げた指名選手をよく見てほしい。
1985年に西武は山野和明森博幸と外野手を2人指名している。
阪神との競合を制した高校生の山野は守備力の高いセンターだが、
森は代打・ファースト要員でもある完全なバッティング型。
86年からが対象だったため、
85年ドラフトを見落としてしまったのだろう。
そして森を獲得したことで
チームの中でやや弱点になってはいるが、
リーグの中で最低限以上の選手が何人もそろっていることを考えると、
新しくドラフトでレフト要員を獲得する人数枠はなかったと思われる。
外野手を獲得するトレードのほとんどが
外野手同士の交換になっているのもそれを裏付けていると言えそうだ。

補強ポイントが他にも多いチーム事情

あともう一つ。
他のポジションでも次世代の選手育成が急務だったことだ。
1988年の時点だと伊東勤秋山幸二が20代後半に入ったキャッチャー、センターと
89年から完全に固定になった田辺徳雄
清原和博のショート、ファーストはまだ次世代への下準備程度だが、
特にキャッチャーとショートは
怪我などで何が起こるかわからないポジションでもある。
そして辻発彦石毛宏典の二・三塁と平野謙のライトは30代に突入。
彼らの元々のポジションと
87年に1位指名していた鈴木健の存在を考慮すると、
ドラフトで獲得すべきなのは結局ショートとセンターになる。
また平野の衰えがもっと早くきた場合は、
レフト併用選手の中から守備力の高い選手を
起用する腹づもりだったのではないか。

 

これらの懸念が表面化したのは1994~95年になってから。
ベテランが想像以上に長く活躍したこともあって、
チームとしては想定よりもむしろかなり遅く、
それも段階的に来るはずが一気に表面化してしまったのではないだろうか。
しかも85年以降に行ってきた高校生の大量指名
ほとんど失敗に終わっていたのは以前見たとおりだ。
指摘された通り大きな穴が空いたままのポジション*4
穴埋めが長続きしなかったポジションもあったものの、
西武は根本がダイエーに移った92年から
大学生と社会人中心の指名をすることで
各所に大きく広がっていた穴を小さくし、
時には先発投手のように大きな利得を生み出したことで
むしろチームをよく立て直したと言えるだろう。


参考文献
竹下弘道「『森西武』の研究」『デルタ・ベースボール・リポート3』(水曜社、2019年)

*1:他に捕手入団の金森栄治(81年2位・プリンスホテル)が同年に外野手で社会人ベストナイン

*2:1つだけ補足すると、88年3位で川名慎一(3球団競合・鹿児島商工)を入札している。外れ3位は捕手の垣内哲也(日高高中津分校)

*3:抽選を外した選手なし

*4:たとえば、特にマイナスの大きかった2000年のセカンドは大卒の高木浩之が絶不調だったが、代わりに入った高卒の玉野宏昌、黒田哲史赤田将吾らも成績はあまり変わらなかった