「野手からチームを作る」伝説
前に書いたように、
一般に喧伝される「ドラフトにおける『根本流』」には、
現実の根本陸夫が行ったものとは全く異なる「偽の根本流」が少なくない*1。
その中でも高校生指名と並んで強調されることが多いのが
「野手からチームを作る」という伝説だ。
これは高校生指名以上に信奉者が多く、
「根本がやったようにチーム再建にはまずは野手から」と考えて
野手偏重指名を求める人は数知れない。
その最たる例とされた96年が実際には投手も多く指名していたことは前に書いたとおりだが、
このドラフト指名の伝説と現実の根本が行った指名の違いを見ていこう。
投手が多い1993~98年ダイエー
以前書いたように、 逆指名制度があった1993~98年のダイエーの上位指名は
投手7:野手5。
この6年間での野手上位指名は6人が3チーム、
5人がダイエーを含めて5チーム*2もいて、
野手5人は当時のNPBの中では平均的な数字。
しかも98年は新垣渚の抽選を外して吉本亮を指名したため、
最初の入札では8:4の比率になる。
これは近年のNPB平均とほぼ変わらない。
他にも忘れてはいけないのは、
ダイエーが上位で獲得した野手のほとんどが
熾烈な争奪戦を制した結果という点だ。
さらにダイエーが投手2人を上位指名した95・97年は、
福留孝介7球団競合に高橋由伸の争奪戦が行われた年。
もし現在と同じ制度だったら、
城島の動向が不明な94年*3と松坂大輔ほか投手の人気が高かった98年*4以外は
この野手たちに入札が集中していた可能性が極めて高い。
また全体の指名で野手数が投手を上回ったのは1993年と96年だが、
93年は投手登録後の野手コンバート1人を野手とカウントして投手2:野手3*5、
96年は投手3:野手4。
むしろその前後の95年は5:1、97年が4:2、98年も4:1なので、
この6年の合計は投手20:野手13、野手率39.4%になる。
なお松井秀喜に入札した92年も、
外れ1位でのちに野手へコンバートした大越基を野手に数えて3:2。
「野手からチームを作る」どころか、
明らかに投手を多く指名してチームを作っているのが
ダイエー時代の根本だった。
ダイエーでの根本が指名を控えた存在
おそらく根本は、使える投手の数が昔より多く必要になったのをわかっていたのだろう。
ダイエー時代もまず2年間監督を務めていたが、
西武管理部長時代の経験と合わせて
そのことを改めて痛感したと思われる。
その証拠に、ダイエー時代は単純に投手の指名数が多いだけではなく、
高校生投手が極端に少ない。
野手は13人中高校生が6人いるのに対して、
投手は20人中たったの4人しかいない*6のだ。
2位までに高校生を計4人、投手も2人指名しているわけだから、
3位以下では投手13人に対してたったの2人。
将来指名するための囲い込みもした上*7でだとは思うが、
いかに高校生を回避していたかがわかる。
上位でなければ獲れないほどの逸材以外は高卒時点で無理に獲らない、とも言える。
今年になって
「根本が高校生を重視していた」と書いたドラフト評論家がいたが、
現実の根本陸夫は高校生投手の指名を極力抑えて
ダイエーホークスを強くしたのだ。
惜しむらくは、この当時の投手指名がそれほどうまくいかなかったことか。
長く活躍した即戦力投手は岡本克道、篠原貴行、星野順治などで先発が少なく、
渡辺秀一、永井智浩や全盛期で亡くなった藤井将雄など短命の選手も多かった。
一方の高校生も指名が4人しかいないので成功率は50%に達するが、
成功者は実働時期にかなりブランクがある吉武真太郎と、
故障の関係で大成に時間がかかり、太く短く終わった斉藤和巳。
このチームもどうにも投手の目利きと育成がうまくなかったのか、
先発で長く活躍する即戦力の指名は
2001年の杉内俊哉と翌年の新垣・和田毅まで待たねばならない*8。
なんだか今の西武を見ているかのようだ。