スポーツのあなぐら

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「高卒1年目200打席」到達選手リスト1993~2004

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具体的な出典は忘れてしまったが、
「高卒1年目に200打席に到達した野手は大成する」
と言われるようになって久しい。
たしか日本ハムの吉村現GMか山田前GMの発言だったと記憶してるけども。
そして、この発言が現在では
「高卒1年目の野手に最低200打席を与えないのは育成放棄」
という言説に変化して広まっている。
後者を主張するのが高卒至上主義の評論家に多いのは
お約束である。

しかし、
この「高卒1年目200打席」を実際に検証した人を、
私は寡聞にしてほとんど知らない。
最近では横浜ファンの某ゴリラさんが
2005年以降のランキングを載せているぐらいじゃなかろうか。

今回は高卒1年目に200打席に到達した選手の一覧を、
1993年から2004年の指名選手まで見てみたいと思う。

1993~2004年選手一覧

1993年

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200打席に到達したのは17人中6人。
松井、大村、金子が2~3年目には一軍戦力になっている。
その一方で、200打席には達しなかった選手にも
立川と福浦がいる。
残念ながら私が見ることができた二軍スタッツには
2B、3B、SFがなかったので、
最近まで現役だった3人以外は正確な数字は分からない。
犠飛なしの出塁率リーグ平均は
イースタンが.333、ウェスタンが.337。

1994年

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この年の指名は19人+のちに投手からのコンバート1人。
城島は95年はHR1本だったが翌年には25本でOPS.974。
キャッチャーをやりながらバッティングも一気に成長していった。
もう1人ウェスタン平均を上回った川口は
逆に.682に落ち込んでいる。
94年の指名選手は1年目に200打席到達しなかった成功者が多く、
特に小関の一軍定着は4年目で
城島以外の5選手を追い抜いていった。
嶋は投手なのでこの打席数は仕方ない。

1995年

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1995年は入団したのは合計16人なのだが、
投手からコンバートされたのが3人、
逆に野手からのちに投手へコンバートされたのが1人と
人数についてはちょっとややこしい。
その中で、1年目に200打席に到達したのはたったの2人。
100打席以上も澤井良輔、田中雅興、高橋和幸の3人しかいない。
中日・巨人以外は入団拒否を明言していた福留孝介
7球団も競合した理由の一端が見えている。
単独指名や逆指名を狙うほどの選手がそれだけ少なかったか、
他の超有望選手の囲い込みが既に完了していたということだ。
荒木は2年目に守備・代走要員で一時期一軍に定着したものの、
本格的な台頭は6年目になってから。

1996年

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高校生野手の指名数が12人しかいないこの年は
前年と打って変わって200打席以上が8人。
大成した選手が非常に多いが大成できなかった選手も同様に増えた。
結果が出ていないのに打席数を与えられた選手が何人もいて、
彼らへの期待の高さがうかがい知れる。
この中で最も早く3年目に出てきた岩村は唯一の大幅なリーグ平均超え。
当時ショートからサードへコンバートされたばかりの池山隆寛
もっと早く衰えていたらもっと早く一軍に呼ばれたかもしれない。

1997年

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高校生野手18人、のちに投手からのコンバート4人で
この年は合計22人の高卒野手がプロ入りした。
しかしバッティングが最も伸びたのは小田、
他に渡辺と飯山が控え要員として長く働いた以外はほぼ全滅した
屈指の大外れ年にあたる。
1年目200打席は18人中4人しかおらずスタッツもいまいちで、
この結果は納得のいく内容になってしまっている。

1998年

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松坂世代の1年目も200打席を与えられた選手は多くない。
指名数は13人+コンバート2人なので率は前年よりはるかにいいが。
200打席以上で二軍平均を上回った2人は 東出が1年目途中から一軍に定着し、
赤田もやはり1年目に一軍で50打席入っている。
吉本以外はそれなりの選手がそろっているが、
一軍で使われ始めてからの伸び悩みが全員非常に長く、
本格的なスタメン定着まで時間のかかった選手が目立つ。

1999年

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1年目から一軍でも起用された田中一を含む6人が200打席以上に到達。
この年の成功率はあまり高くなく、
6人からは1年目に二軍平均を上回った2人が大成功となった。
ただし田中賢はポジションの関係や故障などで
本格化は7年目になってから。
2年目に一軍出場が増えたのは高山と両田中だったが、
3年目から一軍出場が増えた川崎、大島にすぐ抜き去られてしまっている。

2000年

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2000年の高校生野手は指名が22人と非常に多かったものの、
1年目から二軍で使えたのはたったの3人。
内川は2年目に二軍で調子が上がらなかったが、
チームが低迷したこともあってか一軍起用が増えそのまま定着した。
打撃が覚醒し始めたのは7年目になってからで、
FA移籍したのがそれから3年後の2010年オフ。うーん。
畠山は2年目以降1年目とあまり変わらない数字が続くうえに
サード岩村、レフトラミレス、
ファーストにペタジーニ、ベッツ、鈴木健、リグスなどが並んでいて
使える場所もなかった。
この年は中島、鉄平と1年目ほとんど打席に立っていない選手も大成功。
特に最も早くバッティングが開花したのは21打席の中島という結果になった。

2001年

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1年目から使われる選手の数は16人中2人にまで減り、
100打席以上も表の3人に北野良栄が加わるだけ。
3人と栗山、天谷はリーグ平均が打高投低になった2年目に
その平均を上回る結果を残したが、 北野は.773から.594まで低下し、
5人との差がそのまま最終結果へ反映される形になった。
2年目に二軍平均を上回ったのもこの5人だけである。
またこの時期の西武は
1年目にかなり使われた玉野や高山らが伸び悩む中、
逆に200打席に達しなかった中島、中村、栗山が
のちに主力として台頭したことになる。

2002年

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野手だけで高校生が22人も指名された2002年組からは
5人の選手が該当した。
そしてこの中で最も成績の悪い西岡が
最も早く一軍スタメンに定着するという意外な結果に。
西岡は2年目に選球眼が大幅に向上*1しており、
堀幸一小坂誠にやや衰えが見え始めたのが大きかったか。
逆に30歳近くなってから全盛期を迎えた井端弘和がいた
森岡はちょっと不運な印象もある。
23人目の野手高井は投手としての打撃成績だが、これは一軍の数字。
1年目から一軍で投げていたこともあって二軍はわずか3打席だ。

2003年

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指名された高卒野手が14人と少なかったこの年。
一番良かったのが明石で二番目が守備代走中心の城所、
三番目が代打中心の堂上と高校生野手がかなり厳しい結果だった。
明石も本多雄一の台頭で空きポジションがなく、
出てきたのは9年目。
城所は1年目から出てこれると豪語した評論家もいたぐらいで、
実際かなりの打席数を与えられるほど
首脳陣からも期待されていたと思うんだが、
残念ながらその片りんを見せたのは3年前、
プロ入り13年目の交流戦でのことだった。

2004年

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2004年はドラフトで82人の選手がプロ入りしたにもかかわらず
高校生野手はたったの10人、
高卒野手率12.2%はドラフトの歴史上最少の数字だった*2
200打席どころか1年目100打席もこの3人しかおらず、
2年目ですら200打席到達はこの3人だけである。
そんな中一軍で最も結果を残したのは、
1位指名の江川でも1位候補と騒がれた鵜久森でもなく
1年目80打席止まりの石川だった。
1年目の打席数が少ないのは
高校時代のサードからショートも守るようになったためかもしれない。
2年目は二軍195打席で一軍でも2試合2打席。
同期の藤田一也らに代わって二軍正ショートの座を与えられていた。

「1年目200打席」の意外な先駆者

今回は長いうえにまだ2005年以降のことを書いていないので、
ここでは具体的な考察は避けることにする。
ところで、今回のリストで妙なことに気づかなかっただろうか。
1990年代中盤に、
高卒1年目の野手へ意図的に打席数を与えているチームが存在しているのだ。
阪神である。
平尾、高波、関本、濱中は200打席を超えていて、
田中はそこまでいかなかったが192打席。
しかも高卒1年目としてもあまり良い結果を残していないのに、だ。

だがその結果は、暗黒期の脱出に直結したと言えるのだろうか。
直接的に大きく貢献したと言えるのは関本と濱中になるが、
2人とも故障やポジションなどの面もあって
濱中は2003年以前、関本は2004年以降の働きが目立つ形。
つまり、2人が同時に活躍した年がほとんどない。
田中も控えとして2002、03年に貴重な働きをしてはいる。
一方、平尾は2002年に、高波は2003年にトレードされているから、
直接的な数字上の貢献はあまりしていないことになる。
彼らはみなバイプレーヤーとして、
あるいは精神的な支えとして暗黒期脱出に貢献したかもしれないが、
数字の上ではそこまで大きな貢献ではなかった。
そうすると、阪神が暗黒期を脱出できたのは
「高卒1年目に200打席立たせたから」とは言えない。
少なくとも、
阪神はこうやって暗黒期を脱出した。だから見習え」と
今さら手のひらを返して絶賛するまでの結果ではないのはたしかだ。

ドラフト指名でもそうだったが、
「即戦力にばかり目を向けて育成をおろそかにした」
と叩かれていた「暗黒期阪神」は、
叩いていた人たちがのちに主張するとおりの方法を
ここでもとっていたわけだ。
いや、もっと皮肉な見方をすると、
野球評論家、特に高卒至上主義のドラフト評論家などは、
暗黒期阪神をひどく批判しながらも
暗黒期阪神が実際に行っていた手法を
「ドラフト・育成の鉄則」と主張している
ことになる。
暗黒期の再来を恐れる阪神ファンはいつも非常に多いが、
あなた方が主張する暗黒期を免れるための道筋のほとんどは
既に暗黒期阪神が通過した道なのだ。

実のところ、書き始めた時は後半がこういう内容になる予定じゃなかった。
2000年頃の西武に関して軽く触れる程度だったのだ。
ところが改めて表にしてみると
今回の200打席到達者の序盤に阪神がやけに多いことに気づいて
このような話になったという次第。

*1:二軍197打席で34四球

*2:高卒野手数なら1973年の指名5人、ドラフト外1人の計6人がある。入団選手数は計48人で12.5%