スポーツのあなぐら

主に野球のデータ、ドラフトについて書いていくブログ。更新頻度は気まぐれ

ダイエー黄金期前のドラフトを振り返る

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新型コロナをめぐる状況が悪化しており、
いつ開幕できるかわからない今年のプロ野球
ならせめて将来に向けて過去に学ぼうじゃないか。
という体で今回はダイエー
南海時代から20年以上ずっとBクラス、
1994年に4位ながら一度勝ち越したものの
以降もBクラスが続いていたホークスは、
1999年に優勝すると
その後は2005年までの7年で
5回のリーグ優勝を成し遂げる黄金期となった。
今回は黄金期10年前の1989年から2002年までのドラフトを
まずダイエーになり福岡へ移転してから91年まで、
監督に根本陸夫が就任した92年オフから優勝前の98年、
優勝後の99~2002年に分けて見ることにしよう。

 

1988~91年:「目の前の即戦力」が見当たらない

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  高投 高野 大投 大野 社投 社野 高投 高野 大投 大野 社投 社野
1988 3 1 1 1     6 1 1   1   1
1989   1     2 2 5 2 3     2  
1990   2     4   6 1 1     1 2
1991   3 2 1 2 1 9            
3 7 3 2 8 3 26 4 5 0 1 3 3
総計 7 12 3 3 11 6 26            

高卒至上主義の大御所評論家から
「即戦力ばかりでパッとしない」と言われていた
ダイエー初期のドラフトは、
ドラフト外も用いた大量指名
高校生野手と社会人投手指名が目立っている。
全体では高校生が半数以上指名されていて
即戦力はさほど獲りに行ってない。
上位指名野手は外れ1位を拒否された元木と
地元九州のスラッガー内之倉で
2人とも高校生。
8球団競合の野茂と
在京セ志望を表明していた若田部に入札しているから
いわゆる「逃げない」指名もしていた。
また88年は指名6人中4人の抽選を外す不運にも見舞われている。

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その4年間の結果は微妙と言わざるをえない。
チームで長く活躍したのは
野手が村松と浜名、
投手では木村と若田部。
馬場や橋本、下柳、田畑は
移籍先での活躍のほうが目立つ形になっている。

 

1992~98年:3位以下から見えてくる寝業師の戦略

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上位指名はよく知られているように野手と高校生が非常に多い。
…は大嘘で、
大物野手をピンポイントで獲ってしまう一方、
指名自体は投手のほうが多い。
基本的に逆指名を駆使しつつ、
福留孝介のようにまず獲れない*1選手を無理に狙いにはいかない。
他球団との押し引きも絶妙なバランスの中で行っていたようだ。

  高投 高野 大投 大野 社投 社野
1992 1   1   2 1 5
1993 1 1 2 1     5
1994   1   1 2   4
1995 2 1 1   2   6
1996     2 2 1 2 7
1997   2 1   3   6
1998 1 1 2   1   5
5 6 9 4 11 3 38
3位以下 2 4 7 2 7 2 24

上位指名も城島、斉藤和巳、井口、松中ぐらいしか知られてないが、
もっと知られていないのが全体と3位以下の指名だ。
まず指名数自体がかなり少ない。
この時期は大半のチームが
5人程度しか指名しない年が多かったのだが、
ずっとBクラスだったダイエーもその点は他と変わっていない。
そして全体の数字に注目してほしい。
投手:野手は25:13と圧倒的に投手が多く、
全体の半数以上を大学生と社会人の投手が占めている。
そのカギになるのが3位以下。
投手がやはり16:8と多いのもあるが、
16人の投手のうち高校生がたったの2人しかいない。
高卒投手は95年2位の松本から、
3位以下だと93年4位の吉武から
98年3位の小椋まで指名がなかった。

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結果は野手が驚異的。
活躍といっていいか怪しい選手も4人ほどいるが、
彼らを加えると13人中12人が何らかの形で戦力になった。
しかも城島、小久保、井口、松中、柴原が非常に息の長い活躍、
本間もバイプレーヤーとしてなかなかの貢献だ。
佐藤は107打席だった1年目以外はほぼ移籍したヤクルトで戦力に。

一方の投手も
ずっとチームの投壊が続いていたこともあって
戦力数自体はそれなり。
活躍期間の短い選手が多く質では物足りないが、
年ごとに調子のいい選手をやりくりできるようになっただけでも
かなりの戦力アップだったと考えられる。
その中で高校生も5人中4人が一応戦力になっており、
数字上の確率は80%だから
「もっと高校生を獲れば80%の確率で成功したのに」
と大御所ドラフト評論家は言い出す*2のだが、
何度も言うようにまず指名が5人どまりだったから
この確率になったのがわかっていない。
しかも一番右に出した戦力になるまでの年数でわかるように
松本と小椋は少し戦力になったのが30歳前後になってからなので
高卒時点で獲ったメリットがほぼ皆無だった。
前にも書いたが93~98年の高校生指名率は、
全体の指名数がやや少なめ*3にもかかわらず
西武に次いで2番目に少ない。

西武時代と共通しているのは
長く戦力になる選手の大成が早いことだ。
城島は1、2年目二軍で順調に成長して3年目から大活躍だったし、
4位指名の吉武も規定回は一度だけだが
2年目から4年連続でそれなりの活躍はしていた。
斉藤和巳は故障が多く完全な本格化には8年かかったものの、
5年目にはまずそれなりの戦力になっていた。
「将来のため」と称して
一軍には到底及ばない若手を無理やり聖域化したのではなく、
高校生も一軍に近い即戦力の選手を獲得し、
一軍に足るレベルまで育ててから抜擢していたのである。

 

99~2002年:忍び寄る黄金期と崩壊の足音

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  高投 高野 大投 大野 社投 社野
1999   1 1 1 1 1 5
2000   2 2 1   1 6
2001 2 2     3   7
2002 2   2 2   1 7
4 5 5 4 4 3 25
3位以下 3 5 0 4 2 3 17

上位指名は4年連続で投手2人。
さぞかし野手指名をおろそかにしたと思いきや、
3位以下はかなりの野手主体指名で、
全体の投手:野手は13:12とほぼ同じだった。
逆指名(自由枠)争奪戦になった野手は限られていたうえに
有力候補と同じポジションにまだ若い主力や有望株もいて、
さらに囲い込みの完了していた投手が多かったのが
野手の上位指名をしなかった理由と考えられる。

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質・量ともかなり不足していた投手に杉内、和田、新垣が加わり、
野手も浜名、鳥越の打撃の衰えが見えてきていた
二遊間に川崎が急成長。
3連覇のピースがここで完成した。
寺原は2年目の2003年に戦力になるが
ホークスでの最初の5年間は伸び悩み、
本格化するのは6年目の横浜移籍後。

しかしソフトバンクへ売却されたのもあって
暗黒期にはならなかったものの、
ここからの崩壊が早かった。
即戦力が多かったぶんFA権取得が早かったことや
ダイエー本社の資金不足などがあって
小久保、村松、井口、城島らが相次いでチームを離れ、
その次を期待されていただろう
吉本、的場、山崎や外野手たちは
選手不足もあって使われたが
いまいち伸びてこなかった。
ローテの柱が強固になり
クローザーに馬原孝浩が育った投手陣は安定していたが
先発・リリーフの層の厚さがもう一つで、
打線のマイナスを補いきれず
優勝には届かなくなっていく。
そんな2000年代後半を経て
2010年代の黄金期をどうやって作っていったかは
またいずれということで。

*1:抽選に当たっても拒否はほぼ確実

*2:今年の某書も日本ハムの項目などがひどかった

*3:12球団中下から4番目タイ