スポーツのあなぐら

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ドラフト「一番人気」のおさらい ①1978~1992年

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最近よく、
セリーグは競合(一番人気)に向かわないから抽選に当たらない」
「競合をしないから弱い」
という風説を目にするようになった。
一方で、覚えていないのか、それとも意図的にかはわからないが、
過去のドラフトでの「一番人気」選手を、なぜかドラフトの専門家である評論家たちが
間違えて記事にするようなことが珍しくない。
このドラフトの「一番人気」については今一度見てみる必要があるだろう。
今回の対象は予備抽選ウェーバーの時代(1967~77年)はとりあえず置いておいて、
全チームが再び同時に入札するようになった1978年以降とする。

1978年
江川卓 1 3 4 阪神
森繁和 2 2 4 西武

(表は選手名・セリーグ競合数・パリーグ競合数・全競合数・交渉権獲得チーム)

江川だけが一番人気とされることが多いこの年だが、
実際には森繁和が同数の入札だった。
江川は阪神が、森は前年江川に拒否(クラウンライター時代)された西武が交渉権を獲得。
この年は残る3チームが木田勇に入札したため、
1位単独入札がない年だった(木田は広島拒否)。

1979年
岡田彰布 2 4 6 阪神

特に地元関西では絶大な人気があったという岡田彰布には
在阪3球団を含めた計6球団が入札し、阪神が2年連続で交渉権を獲得した。
二番人気は前年広島を拒否した木田で再び3球団(大洋が2年連続)、
セリーグではないが在京の日本ハムがくじを引き当て、今度はプロ入りした。

1980年
原辰徳 3 1 4 巨人

一番人気の原は4球団だが、セリーグが3球団だったためか
一部のドラフト評論家からはなかったことにされている年である。
二番人気は石毛宏典(パ2)と竹本由紀夫(セ2)に2球団。

1981年
金村義明 0 2 2 近鉄
右田一彦 2 0 2 大洋

競合は近鉄・阪急が入札した金村と大洋・阪神が入札した右田だけ、
単独入札が8人もいる本命不在の年だった。
ただし単独指名組には槙原寛己津田恒美宮本賢治伊東勤
外れ1位に山沖之彦と1位の当たり選手自体は多い。

1982年
野口裕美 1 2 3 西武
田中富生 1 2 3 日本ハム

3球団競合の大学生投手2人が一番人気。
入札も抽選もパリーグ優位なので「人気選手=パリーグ」論には都合がいいはずだが、
三番人気で2球団が競合した荒木大輔と、
荒木の外れ1位となった斎藤雅樹ばかりが「ドラフトの鉄則」として強調される年である。
野口と田中がプロでいまいちぱっとしなかったのも一因だろうが、
やはり基本的に彼らは高校生にしか興味がないのかもしれない。

1983年
高野光 2 2 4 ヤクルト

一番人気はこの年も大学生投手の高野。
次いで小野和義3球団、川端順が2球団と続き、パリーグは全チームが競合した。
セリーグの単独指名3人は水野雄仁中西清起、藤王康晴。
外れ1位にも渡辺久信白井一幸加藤伸一がいるという、
藤王を除けば1位だけでもなかなかの当たり年である。

1984
広沢克己 1 2 3 ヤクルト
竹田光訓 3 0 3 大洋

一番人気は広沢だけのような書かれ方をする年だが、
実際には広沢と竹田のチームメイト2人が一番人気。ただしプロ入り後は明暗が分かれた。
この他2球団競合が佐々木修(パ2)と嶋田章弘(セ2)の2人で、
残るパリーグ2チームが高校生投手の単独指名となっている。
ところで一番人気指名にうるさい人たちは、広沢を獲得したヤクルトも
翌年清原に入札しろと言うのだろうか?

1985年
清原和博 2 4 6 西武

清原はパリーグ4チーム(うち在阪2)にセリーグ阪神と中日の2チーム、
二番人気の伊東昭光もセ1、パ2で、パリーグは全チームが競合だった。
一方で、残る単独指名3人は長冨浩志桑田真澄中山裕章
最初の入札5人は全員が当たり選手だったことになる。
今見ると2年前に地元の藤王を1位で獲った中日が清原に向かったのが謎である。
外野起用のめどがたったのか、あるいは既に見切られかけていたのか。

1986年
近藤真一 4 1 5 中日

甲子園のスターだった近藤に5球団、地元の中日が見事引き当てた。
次に阿波野秀幸が3球団、田島俊雄が2球団でこの年はセリーグが全チーム競合、
単独指名は西武とロッテだが、森山良二と関清和は短命だった。
この年は外れ1位も含めて全チームが投手を1位指名した。

1987年
川島堅 2 1 3 広島

3年連続で高校生が一番人気となったが、川島はいまいち活躍できず。
2チーム競合の二番人気は長嶋一茂(セ2)、立浪和義(セ1、パ1)、伊藤敦規(パ2)の3人、
単独指名は橋本清鈴木健伊良部秀輝の3人だった。
7人中高校生が5人という点からもわかるようにこの時期は高校生の人気が極端に高く、
高卒至上主義者にとってはさぞ天国だったことだろう。

1988年
川崎憲次郎 2 0 2 ヤクルト
中島輝士 0 2 2 日本ハム
酒井勉 0 2 2 オリックス

前評判の非常に高かった志村亮のプロ入り拒否(社会人野球にも進まず)、
手術や球団職員といった各チームの囲い込み策もあってか本命不在だったようで、
一番人気は2球団競合が3人という結果になった。
当たり選手は単独指名、外れ指名にも多い。

1989年
野茂英雄 3 5 8 近鉄

野茂に史上最多の8球団が競合、引き当てたのは最後にひいた近鉄だった。
単独指名や外れ指名にも当たり選手が続出した大当たり年として有名な年。
外れウェーバー最後となったオリックスは上田監督が野茂特攻を主張したらしいが、
編成が危惧した通りウェーバー最後はさすがに指名に苦労したそうである。

1990年
小池秀郎 4 4 8 ロッテ(拒否)

前年に続いて小池が8球団競合も、前年に比べて外れ1位はやや人材不足の感。
単独指名4人は水尾嘉孝以外それなりの活躍で、その水尾も移籍後はそれなり。
外れ1位にも湯舟敏郎岡林洋一がいるとはいえ単独指名組のうまさが目立つ印象がある。
そして小池は当日金田監督が強行したロッテが引き当ててしまい結局拒否。
13年目にして1位抽選を初めて当てたロッテには最悪の結果が待っていた。

1991年
若田部健一 2 2 4 ダイエー

3年ぶりに2人以上の競合があったこの年の一番人気は若田部。
二番人気は2球団競合の斎藤隆(セ2)と田口壮(パ2)、単独指名は4チームで、
高校生の1位入札(萩原誠石井一久)も3年ぶりだった。
最初の1位入札7人中外れは萩原だけで、吉田篤史高村祐
当たり選手と言っていいだろう。

1992年
松井秀喜 3 1 4 巨人

オリンピック凍結組が解禁になることもあってか、
甲子園のスター松井は4球団止まり。
他には伊藤智仁が3球団(セ2、パ1)、5人が単独指名で、
7人のうち松井以外は全員社会人だった。

続く。